七尾が生んだ桃山美術の画聖
長谷川等伯

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○等伯の時代


桃山時代とは

 桃山時代といえば織田信長、豊臣秀吉などが活躍した16世紀の終わりから17世紀の始めの時期で、「桃山」という名称は秀吉が京都伏見の地に建てた伏見城に由来します。伏見城は豊臣家滅亡後に破壊されましたが、跡地に桃が沢山植えられた事から「桃山」と名付けれたといわれます。
桃山時代は強力な指導力を持つ信長、秀吉によって古くからの権威が打ち壊され、新たな秩序を創造する時代であると同時に、戦乱で荒れ果てた世の中を復興する時代であったと思います。
 また、ヨーロッパ人(南蛮人)の来航によって、国内は政治経済文化など多方面で大きな影響を受けました。全く新しい彼らの思考・文物は当時の人々の好奇心をかきたて、絵画や工芸などに盛んに取り入れられ「南蛮文化」が開花しました。


七尾城〜戦国時代・日本屈指の巨大山城

 七尾城は、応永15年(1408)から天正5年(1577)までの169年間、能登を治めた能登畠山氏が支配拠点として、石動山系に築いた山城で、自然の要害を巧みに利用した築造技術と、その広大な規模は戦国時代の山城としては日本屈指とみられています。さらに、七尾城の麓には整然とした町割りがなされ、武家屋敷や町屋、寺院などが軒を連ねた城下が所在することも確認されています。その結果、これまで山城との印象が強かった七尾城について、山上の城と山下の城下が一体となって残る城下町遺跡で、まさに能登の政治・経済・文化の拠点都市であったことが明らかになりました。
 こうした、七尾城下町には京から多くの文人墨客が訪れ、能登畠山氏やその家臣らと文芸活動を繰り広げ、京風の「畠山文化」が花開いたと伝えられています。現存する三巻の連歌集はその遺品ですが、戦国時代に七尾で生まれ、上京して画聖と言われた長谷川等伯(能登時代は「信春」)も、畠山文化の影響を受けて、その才能を育んだと想像されます。


桃山画壇

 桃山時代の絵画を代表するのは、狩野永徳を中心とする狩野派一門です。永徳は障壁画や屏風など、大画面に巨大な松や動物を豪快な筆さばきで描くという桃山時代絵画様式を完成させたとされてます。豪胆で迫力ある絵画表現は当時の武将達に好まれ、信長の安土城障壁画をはじめ多くの絵画制作を行い、一門は隆盛を極めました。それらの絵画は寺院の書院などにも取り入れられますが、永徳と同じくこの時期に活躍した長谷川等伯の代表作「楓図」もその一点です。秀吉が子供の菩提を弔う為に建てた祥雲寺の内部を飾っていた障壁画だといわれ、その画風は永徳の影響を受けつつも繊細さが見られます。また滋賀出身でいかにも武人的な勢いのある絵画を描いた海北友松、山口出身で最も室町的な雰囲気の作風を持つ雲谷等顔なども活躍しています。


時代を謳歌する人々

 桃山人の活発さは風俗図などの絵画に表されています。豊臣秀吉の7回忌に盛大に行われた豊国祭の様子を描いた狩野内膳筆の「豊国祭礼図」は上杉本「洛中洛外図」と並び、当時の風俗を一番典型的に表現している代表的なものです。2800人からの人々が色とりどりの着物を着て豊国神社の前で大きな輪を作り歌い踊る姿が生き生きと表現され、戦乱から開放された人々が新しい生活を謳歌する様子を伝えています。祭礼図としては祇園祭、住吉祭なども描かれています。また、人々の宴の様子を描いた狩野秀頼筆の「高雄観楓図」や狩野長信筆の「花下遊楽図」なども今日伝わる名作です。花が咲き乱れる中で、派手な小袖をまとい飲食や踊りを楽しむ人々の歓声が聞こえてくるようです。「柳橋図」の様な名所絵も盛んに描かれました。柳橋図は、宇治平等院前の宇治橋を描いたもので名所絵の代表です。人々は名所絵を通して旅心がかきたてられ、実際に赴き、交流の場としたと思われます。中でも当時の寺社は一種の遊戯場的な役割を持ち、その広場では祭礼や犬追物など様々な催しが行われました。また、狩野氏をはじめ当時の一流画家はよく神社に巨大な絵馬を奉納、それが絵馬堂に掛けられました。城などには入れない一般庶民はここで画家達の絵画を鑑賞でき、ある意味で今日における美術館、ギャラリーの様な役割を果たしていたともいえるでしょう。人々は寺社に集い、催しに参加したり絵画を鑑賞したり、弁当を広げて一杯やって楽しく遊んでいたという事が想像されます。


桃山工芸と流行
 
 この頃、千利休によって大成された「茶の湯」ですが、端正ではない粗相なものに精神的な安らぎを求める新しい美意識が生まれます。日常で使う様な生活雑器、割れたり歪んだり一見出来損ないとも思える様な道具が好んで用いられ、伊賀、丹波、備前、信楽などで多くの作品が制作されています。また名工・楽長次郎が登場、利休の好みを忠実に反映した精神性を内に秘めた焼物を創作、それは楽焼として現在も継承されています。一方、岐阜県美濃地方でも黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部などの焼物が制作され、桃山的気分を表現した優れた造形が行われています。特に織部は一方のみに釉楽を施す片身替りの技法や、南蛮人の姿を写した燭台をはじめ、南蛮の意匠を用いた斬新な造形の世界を創造しています。
 着物は辻が浜染めが流行し、一般庶民の着物の中に初めて色鮮やかなものが出てきます。また、それまでの大幅な広口の袖に対して体にフィットする実用的な着物である小袖が一般化します。今日、高台寺には秀吉の奥方である北政所の肖像画が伝わっていますが、小袖を着用した姿で描かれ、権力の中枢にある人にも受け入れられていた事が分かります。小袖は派手好き、活動的な桃山人の気質をよく反映しているのではないでしょうか。また能装束についても唐織、縫箔など非常に華やかとなり肩の部分にアクセントを置いた肩裾など斬新なデザインが用いられてます。
 漆工芸の代表は高台寺蒔絵です。秀吉をまつる高台寺の須弥壇を埋め尽くしている秋草や菊桐の蒔絵からこの名があります。萩・すすきなどの秋草をモチーフとし、直接的で分かりやすい意匠・美しさで武将達などに受け入れられ大変流行しました。一方、朱漆で南蛮人を描いた鉄砲の火薬入れや漆のキリスト像など、南蛮のデザインも好まれ異国情緒溢れる作品が多数制作され、海外にも輸出されています。また、伝統的な日本の大和絵風な装飾の世界についても、本阿弥光悦などが高盛りなどの新しい技法を駆使して斬新な蒔絵のデザインを行いました。


桃山人のエネルギー
 
 戦国時代、荒れ果てた都を離れ多くの文化人が山口の大内や越前の朝倉、能登の畠山など地方の有力大名を頼り分散しますが、その結果、中央の文化が地方へ伝わり、地方の文化が栄えます。長谷川等伯や海北友松、雲谷等顔などは地方で活躍していましたが、信長などによって戦乱が沈静化して都に平和が取り戻されると再び多くの人達が都へ集結し、桃山文化の担い手になっていきます。ある意味では中世末期に地方へ分散した文化が桃山時代に改めて集中され、新たな秩序を形作っていったと考えられます。その中で長谷川等伯も実力の世に自分の力を試そうと都に上ったのではないでしょうか。また等伯だけではなく、当時のあらゆる階層の人々が自分の理想とする新たな世を作ろうと精一杯頑張った、戦国の破壊の中から復興へ向けた人々のエネルギッシュな時代が桃山時代だったといえるのではないでしょうか。


※タイトルの「桃山時代とは・桃山画壇・時代を謳歌する人々・桃山工芸と流行・桃山人のエネルギー」は平成10年9月15日に行われた「長谷川等伯展〜仏画から水墨画まで〜」での特別講演会(桃山という時代/石川県七尾美術館館長・嶋崎丞氏)を石川県七尾美術館がまとめたものです。また、「七尾城〜戦国時代・日本屈指の巨大山城〜」は七尾市教育委員会文化課(善端直氏)がまとめたものです。